空とわたし

  • 2013.02.22 Friday
  • 19:57
私はお空が大好きです。

お空は、すごい。

1日を通して、色んな色を持っているお空。

朝は、光に包まれた黄金色のお空。

お昼は青いお空。

夕方は、オレンジ色のお空から真っ赤なお空へ。

だんだん青みをおびえていき、夜は群青色になって、真っ黒になる。

いろんな色のお空。

色が変わっていくという不思議。

なんてすごいんだろう!!





心の状況によって空の色も変わる

いろんな問題に囲まれて、心が涙を流しているときは

空を見ても、なんとも思えなかった

綺麗な空が、 こわくみえる

自分に迫ってくるようで、上を向けない

空と向き合えなくなる

空から降ってくる雨の一粒一粒

それらが大きな魔物のようで、私を襲ってくる

絶望と戦ってるとき

真っ赤な夕焼けを見ると、自分が崩れ落ちてしまいそうで

ただただ目をつむっていた

でも

希望が見えてきたときは

いつも私の前に太陽が光が届けてくれる


私と太陽は繋がっているのではないだろうか?

と大真面目に考えてみたことがある

私が見たいと望めば、目の前にお月様があらわれる

私とお月様は繋がっているのではないだろうか?

と大真面目に想った


空を思い浮かべるとき

私は自分の心の奥を思い浮かべるようにした

空は私の奥にある

そう思うと、なんとも言えない気持ちがあふれてきて

涙がでてきた

私は、かえりたい

私は空と共にあるあの感覚にかえりたい

そんな思いがあふれてきた

これはなんだろう

神様? 大きな源? 愛? 宇宙?

言葉を選んでも、ぴんとこない

くるのは、この感覚だけ

ただただ私は感動する

至福感

いつも私は見守られている

いつも私は空と一緒にいる

もしかしたら

私は空と一緒にいるのではなく

私自身が空なのではないだろうか?

そう思うと、また感動で足がふわふわ浮いていくかんじ。

そうだ!私は空なんだ

不思議な話だけど、そうに違いない

そう考えると私は感動するし、幸せだ

私は空

そう想うと私は感動するし、幸せだ


良心について

  • 2010.08.10 Tuesday
  • 11:02
少し前に描いていた、ねこの絵、あれはがんばって描いてたんだけど
結局、仕上がらずに没になってしまいました。
今年は、ちゃんと完成した絵がひとつもありません・・・。
一体、どういうことだ。

絵本を描こうかなあと、思いつつも、それもなかなか実行できず。
いつになれば、気が満ちてくるのでしょうか。

人の心には良心というものがあり、それを大事にすることがすごい大切だなあと
最近そう思います。
人と人が交わり、何かの拍子で傷つけたり、傷ついたりしてしまうことはよくあること。
傷つけられたとき、それを相手にいうことって少ない。
傷つく自分が悪いの?って思ったり、相手の関係を損ないたくないって思ったり
距離を置いて付き合えばすむことだと思ったり。

沈黙の中にもいろんな気持ちがあるね。

沈黙について過度に考えすぎて落ち込んじゃって何にもできなくなるのもよくない。
でも、沈黙を全て自分の良いように考えてしまうのもよくない。

人が傷ついてなくても、自分が不利な状況にならなくっても。
自分が人を傷つけたり、失礼なことを言ったかもしれない失敗については
良心が痛む、というその痛みを大事にしていきたいな。
だから、次の失敗を避けることができるし、人の痛みもわかることができる。

損得で物事を考えるのではなく、心が持つ良心というものを大事に大事にすること。
そして、その良心自体も磨いていくこと。(難しいけど)
そしたら、同じような価値観を持つ人と出会っていける。
優しい人と優しい人の絆は強い。

さてさて、私は、絵を描きたい。
みんなが感動して幸せになってそんな絵を描きたい。
でも、描けない〜〜〜。
今は何の発想もわいてこないし、空っぽなのだ。
そして、この状況がすごく辛い。

すごい世界

  • 2010.05.06 Thursday
  • 16:57
ずっと、走ってきて、いまやっと落ち着いてきたような気がする。
何のために生まれてきたのか、そもそも生きるってなんなのか
希望や、人とのつながり、社会と自分の関係
そういった一切合切に、どんな意味付けをしたらいいのかわからなかった。
でも、それが、自分のなかでしっくりとくるようになった。

数年前、生きることがいやになった。
美しき世界を信じていたんだけど、それが回りには一切見当たらなくて
生きることに何の魅力も感じなく、死ぬことばかり考えてた時があった。
そして、想像で美しい世界のことばかり想像していた。
でも、私のまわりはあたたかく、いろんな人に助けられた。

私は、想像の世界にばかり想いを抱いてたらだめだなと想って、
現実を考えるようになった。

私のなかでは、現実のなかでは、あの美しき世界は小さかった。
両てんびんにかけてたような感じ。
芸術に没頭すれば、現実は危なくなるという哲学を信じてた。

でも、それは間違いだと気付いた。
美しき世界は、幻想であるかもしれないけど、それと現実は繋がっている。

最近すごく思うことは、人間という生き物はすごいということ。
私のなかにも、まだまだすごい世界が眠っている。
それに気付いて、開花させていく努力ができるということ。

心を豊かに、美しく、バランスがとれていくと、まわりの環境も
よくなっていく、自分だけでなく、まわりのもの、まわりの環境
それらは全て生き物のようだ。
愛情をもって、心を養っていく、思考を働かせて、歩いていく。
間違いをおそれない、間違っても、過度に落ち込まず、すぐに
前をみて歩いていこう。

素晴らしく感動的な世界で私は生きているということ、
それが、少しずつわかってきた。

そこでびびっていちゃ、我々人間に未来はない。

  • 2009.07.18 Saturday
  • 19:51
私が美しいものを表現するアーティストになりたいという結論に至ったのはごく最近のこと。
生命の美しさをコンセプトに表現していきたいと思ったのは最近のことだ。

まあ、それでも以前も動物の愛らしさを表現する絵はよく描いていた。

でも、昔は苦しい自己との葛藤を絵にしていた。
詩画集「もっとちかくにきてよ」に載せてる絵は暗い絵がおおい。

美しいものを表現していきたいというコンセプトが先にきたというより
段々、きれいなものを描くようになってきた。
自己との戦いが解決され、美しい世界が開かれてきた。
私は感性で構図が浮かび、色を塗っていくから、自然と、感動をあらわす絵になっている。

そして、できあがってきた絵を人に見せるときの、人が見せてくる笑顔とか
感動が伝わってくると、とってもうれしいので、また描こう!という原動力になる。

なので、前は、自分を表現したいという思いからの表現だったんだけど
それが、最近は、人を感動させたい、人に喜んでもらいたいという表現に変わってきてる。

だから、ドットの作品を創れば、細かい作業に感動してもらえたり
動物の愛らしい表情が、かわいいといってもらえたら、ドットと動物を
合わせて描いたら、かわいい絵ができるんじゃないか?とおもい
こういう作品ができてきた。




といっても、ぱっとわいてくる構図をもとに描いてる。
なので、自分の感性と、他人を喜ばせたいという気持ちが、合致してきたと
いうところがほんとのところかな。

でも、これって、所謂 絵画でなくイラスト的?
私はイラストについてそんなに詳しく知らないから無責任な発言だが
注文をうけて創るようなイラストのような考え方?
絵画性について考えるときに、他人に合わせて描くものじゃなくなってしまう?

そんな疑問がでてくる?

そんな問題提起は少し横に置いといて・・・。


そうそう、昔描いてたような暗い絵とか挑戦的な絵とか。
例えばこんな自画像。



あるギャラリストに、最近の絵より、こっちの絵のほうがエネルギーがあり、
魅力があるといわれたことがある。

まあ、この絵を描いてたときの私も、これを自己表現の一つとして他者から
評価されたいと思っていたのも事実。(実際に行動することはなかったけど)

でも、時の流れと共に、自分のアーティスト活動がカタチになってきたのは
最近の絵を描き出したときで、これから先の未来を思うと、多分暗くて絶望的な絵に
広がりはあまりないということで、美しいものをコンセプトにするしかないし、そうしたい。


でも、芸術のひとつとして、ただ美しいものは首をかしげられたり、
抵抗をうけることがある。

それについていろいろ考えてみた。

私が暗闇にいたときに、自己表現というものは絶対不可欠だったし、
それを人に見せることで、解決を得てきたことは多い。
でも、それってすごく個人的なことだった。
だし、それを見てもらった人って、家族や恋人や友達だったりした。
不特定多数の人に対しての表現ではなかった。

自分で歩んできて、一歩ずつ歩んできて、いろんなことが解決していった。
そして、一種の平安をつかんだ。今度は平安や希望が絵になる。
その区切りとなったの絵がこの絵だ。「招待状」
道が開いたことが、表現されている。希望の前に立ったことがあらわれてる。






現代社会において、社会の歪が個々にも影響を与えてて、それは個人主義とか
家族間の問題、学校での問題とかいろいろあるけど、そこで子どもの頃に
なんらかのバランスを失うことが多い。ほんとうは、満たされねばならないものが
満たされずに育っていく環境があった。

それらをじっと見つめ、戦うことは自己との対峙だし、非常に辛いし、孤独な戦いだ。
戦いを自らする人もいるだろうし、それを見て見ぬふりしながら、微妙なところで
行ったり来たりしている人もおおいと思う。
また、そこのバランスを崩したものをシュールにとらえたり、おもしろおかしくとらえることもある。

そして同じ時代において、誰かが同じ戦いをしていることや自分と同じような
変わった考えや感性を持っているということを知ることが励みになったり、
刺激となり、必要とされていることも事実だ。。

実際に、私の詩画集がよかったといってくれた人もいる。

でも、苦しい時の絵を、家に飾りたいと人はおもう人は少ない。
私の絵のなかでも、ちょっと変わった作品や毒のある作品よりも
きれいで愛らしい絵のほうが、ほめてくれる人はおおい。


わたしは何がいいたかったんだっけ・・・・
なんかまとまりがつかなくなってきたな。

個人的な理由で悩むことは勿論大切だし、そこを応援していく表現のマーケットは
必要だけど、でも、それが解決して、いくらかのバランスが保てて、人が自立した
精神を手に入れたあとの、表現というものは、多くの人を包み込めるとおもう
(なんかすごい自信家の発言みたいだな・・・ こんな立派な人間ではないけど)

だから、表現者というものは、偏ってることが天才だとかいわれることあるけど
やっぱり、まとまりよく成長していくことが必要だし、私は正論の道を歩みたい。

そういう道って難しくて、宗教は間違いをおかしてきたし
理想の看板だけつくられてきた歴史で人は甘い表現に抵抗する現実。

でも、そこでびびっていちゃ、我々人間に未来はない。

そして、先のない悩みには可能性が少ない。
悩むということは、答えがあるからであり、その先に希望があるから
悩むということが素晴らしくなる。

そして、悩んだ先に、戦い抜いた先に広がる美の世界は、無限の可能性があるはず。
たぶんだけど、対称のスパイラルが生じていく。
それは、バランスが保たれるということ(対称とも関係してる)は美しということ。
それは ∞ 無限大ということ。






きょうの天気はくもり。

  • 2009.07.17 Friday
  • 10:09
北京の画廊に5枚の絵を展示してもらっていますが、
そのうちの1枚の絵を買ってくださった方がいるとの報告が入りました。
はじめて、海外で売れた記念すべき日です。

絵は万単位の価格がつくので、なかなか売れるもんじゃない。
展示する場所もなかなかなかったり、マーケットを見つけていくことも難しい。
ギャラリーの数よりアーティストの数のほうが圧倒的に多いので
なかなか難しいです。
くじけそうになります。

でも、やっぱり作品が売れたときが一番うれしいかな。


****************************

最近は、やっぱ対称について色々かんがえてる。


1、



↑の二つの○は、真ん中に線をひいたとすると、左右対称にうつる。

じゃあ、この2つの○


2、



この2つの○は対称じゃないのかなあ。

1の2つの○は、 
・○であること ・大きさ ・高さ ・真ん中の線で区切って、ずらすと一致する。

ということ。

でも、

2つの○でいうと、 ○という概念は同じ。
同じということが一致してるとするなら、1つ目の○は書いた時期とかは関係ないんだろか?

下の○は書いた人が同じで 書いた時間が同じだったら、1の○よりも近くなるとおもう。

あとは、 大きな○の中に小さな○が入ってるけど、これって見る位置によって
同じに見えることもある。

二つが左右に離れているから 全く違うもののこともある。

そんなことを考えてて、 違うもの同士が、ある法則の縛りのなかで共通点があるなら
それは対称というような気がする。

「対象」って言葉ならなんでもありになってしまう。
「対」ともなんか違うんだよなあ。
反対のことも対称のようが気がする。
なんらかの法則のなかで釣り合いが保たれてるもの?

時間が過ぎていくのも、 12時00分 の次に 12時01分がくる。
00分と01分は 対称のような気がする。

とするなら、時計は、そういう対称の連なりであって、多面的な時間の流れ。



あと、私がおもうのは。

世界は対称に縛られてるけども、一つ、対称ではないものがあって
それは、エネルギーだとおもう。

「無」と「有」は対称だとおもうんだけど

そこに働く「→」 これは破壊又は創造でもあるとおもう。
「無」を破壊して「有」になる。
「有」を破壊して「無」になる。

だから、時計は、 00分と01分では対称だけど。
そこに進むエネルギー それは00分を破壊し01分を創造していく。
00分を破壊し、00分ではないものが作られる。それを私たちは01分と呼ぶ。

そんなからくりのなかで私達は生きてるようにおもう。

自然を研究開発して、前へ進むエネルギー。
世界と人間の対峙。 私はそれも対称だとおもう。つりあいを保とうとする。
(私が考えてることは、1人で考えてるだけやから、めっちゃあらばかりで
言葉の使い方も、間違えていることが多い)

それは、種を土に植えると、芽が出て葉っぱが生えてとかそういう力のこと。
進化していくエネルギー。

これに対称はないような気がする。

全ては対称、独立したものなんてない。世界は人間が認識するからある。
お空も、人間が認識するからそれらがある。
でも、唯一のもんはあるような気がする。
ロボットはつくることができるけど、そこに、そのエネルギーの息を吹き込む
ことはできない。そういうところ。

で、対称がきれいに連なるときに、エネルギーがうまれる?
なんか、まだわかんないけど、そんな匂いがする。
対峙が生じたときに、ドカンとなにかが創られる?

歓迎の孔雀の羽だけど、違ったもの同士がある法則のもとで並ぶ
羽の模様一つ一つは違うけど、それが、並んでいく。
そこから、何らかのエネルギーがあふれでてくるような気がする。
そこに、私は孔雀の顔をかいた。生命の美しさ?
生命が持つ、破壊と創造の唯一のエネルギー?なんかそういうのん
世界の縮図?



わからないことだらけです。
合ってることなんてきっと、ない。
だけど、今の私はそういうことについて気付けば頭がいっぱいになってる。

人が地球に生まれた時から、孤独なんて図式は成り立たない。
絶望という図式は成り立たない。
じゃあ、希望という図式も成り立たないのではないか?
とか秩序とか平和という図式も成り立たないのではないか?
戦争というエネルギーはどうなるのかという問題が出てきたとしても

そこで、植物が実を実らせていくという唯一のエネルギーがあるということが
関係してるとおもってて、甘い言葉では言いたくないんだけど
対称だけではないので、歩み続けているということで その歩み続けているという
エネルギーは、実らせていく、進化していくとかそういう
表面上は 一種の価値観にも捉えられそうなものが働いているとおもう。
だけど、これは理想論とかじゃなくて、もっと確かなもののような気がする。

というわけで、こういうことが頭から離れなくて、何を見ても
自分の体見ても、二つのもんあるし
外に出ると、靴箱は対称の連なりだし、そこに入ってる靴とか
何見ても、対称のことしか頭に巡らないので

図書館には、世界は対称に縛られているという本がいくつかあるみたいなので
かりてきて、読もうと思います。





「命あるものの美しさ」

  • 2009.07.15 Wednesday
  • 20:42
いろいろと、数日間、自分なりに哲学してましたが。
まあ、
まあ、 難しいことは、いっか。

みたいな、境地になった。

結局ですね、いろいろと考えてても、それは言葉に出すと自己満足だったりする。

自分は、これから何をしたいかということだとおもう。

数少ない自分と同じ哲学の人を見つけて、ああでもないこうでもないと話すか。

そうじゃない、まさしくエンターテイメントを創る、
人々に感動を巻き起こしたいのであれば、

やっぱり、コンセプトたるものは、わかりやすくないと・・・。

誰がきいても、わかりやすく、惹かれる言葉。

「世界との対峙」とか「芸術はエンターテイメント!」とか「美のスパイラル」とか
そういうのんって、どうなの?ということですね。

そういうわけで、

私は、堂々とアートという枠組みのなかで、王道をいきましょう。

いま、考えている私のコンセプト。

それは、

「命あるものの美しさ」 

「命あるものの愛おしさ」 

そういうかんじ。

シンプルで、誰が聞いてもわかりやすいもの。

そして、作品の中にそれがあらわれているかな。

僕は僕のことがすき

  • 2009.07.14 Tuesday
  • 19:48
1人のときと、自分の核心部分を愛してくれてる人、認めてくれてる人といるときは、
結構な自信家で、なんでもかんでもべらべら堂々と話したり素直でいれるんだけど、

一歩外にでるだけで、どうしてこんなに臆病になるんだろう。

かわいくないなあ・・・。

こんな感情を表したのが、この絵と詩です。



「僕は僕のことが好き」

僕は僕のことが好き

僕が僕のことを好きでいれるのは

君といるときだけ

僕が僕のことを好きでいれるのは

君がそっと見てくれながら

僕が一人でいるときだけなんだ


いつも泣いてばかりでごめんなさい

**********************


できるなら、1人で1人の世界で絵を描いたり詩を描いたり哲学したり
しておきたいな。そしたら、何にも誰にもいわれず、やっていけるもん。

だけど、やっぱり、人に見てもらいたいという気持ちもある。

外に出れば、味方もいるし、敵もできる。

10人の味方よりも、1人の敵がこわい。

自信がないよ。

何をいわれても、堂々としている自分になりたい。

自信がないのは、努力してないからだと、がんばって、がんばっても
でも、やっぱりなかなか自信はつかない。

でも、 

10人の敵にあっても1人の味方に出会うと、
20人の敵にあっても、もう1人の味方に出会いたいと思う。

だから、迷っても、迷っても、

結局の最後は、一歩出るしかないという結論に達する。

迷っても、迷っても、 の時間をもう少し短縮できないかなあ。

あ〜〜〜〜〜〜。

私にできることは、1人で いろんなことを空想することだけ。
こんなことできたら嬉しいなあと、夢をリアルに想像することだけ。

そうやって、ここまでやってきた。

でも、最近、その空想をすることさえこわい。

本当にそれが叶っていくのがこわい。

情けないなあ・・・。

芸術とはエンターテイメントである!

  • 2009.07.13 Monday
  • 13:27
ここ数日、かんがえてます。
一個一個、見つけていってる。

荒削りの考えですが、形を作り出していってるような気がします。
そして、私の考えは私の考えであり、これは正しいとも間違ってる
とも、まだわからないことは確か。


「世界との対峙」というコンセプト。

そのなかで、もひとつ。

私が贈りたいテーマ。それは「エンターテイメント」です。
「エンターテイメント」それは「人を楽しませること」「人を感動
させること」

表現という枠組みの中でですね。一種の価値観を持っているものです。
「楽しむ」「喜ぶ」「感動する」

しかし、私が思う「エンターテイメント」は
他者と対峙するということ、表現するということ自体が
「エンターテイメント」なのではないかと思うのです。
一種の価値観ではないのです。
極論すれば表現=エンターテイメントです。


先ほどのブログの記事でかいたように、世界と対峙する私がいる。
その世界観を他者に提供する。 その内容として私は「美」とかいた。
だけど、ちょっと違うかな、とおもったりもする。
それは「エンターテイメント」ではないか。
楽しむ、喜ぶ、感動する それは「美」ともいえる。


自然のなかには、沢山の色彩がある。
夕陽が落ちていくとき、真っ赤に燃える太陽とそれらの周りにある
赤や紫色の雲。それらを見て人は美しいとおもう。
世界は我々人間を意識しているのだろうか?

世界と対峙する私は、世界から「エンターテイメント」を受け取っている!
自己と対峙する私は、それが完成に近づくにつれ、「エンターテイメント」
のように、感動する!

他者との対峙は世界との対峙 そのものこそ「エンターテイメント」だと
おもうのです! (多分だけど)

現代アートで、人を意識して自分の作品に解説をつけること。
誰もやってないことを見つけること。シュールな作品で人をおっと驚かせる。
常識であったことを覆してみる。
これらは、他者を意識しての表現です。

なので、「芸術とはエンターテイメントである!」みたいな
現代美術の文脈として、「エンターテイメント派」としての位置づけはいかがなもんでしょうか?
(もう、あったりして・・・・。)ま、それはそれとして。(なんのこっちゃ)


「対峙のスパイラル」それは「エンターテイメントのスパイラル」

ものをつくること。

机とイスを作ること。これは、他者がご飯を座って食べるように。
ご飯を食べて豊かな生活を送れるように。
その机とイスに色をぬる。デザインをかえてみる。

農家が畑で作物をつくること。
世界(自然)からうけとるエンターテイメントを人に届けていくこと。

それらを、調理するシェフたち。
食べやすく、美味しく、美しく盛り付ける。

他者との対峙はエンターテイメント。

芸術だって、他者に見せるもの。

楽しませることを目的としているのではない。
「対峙」なのです。 
対峙ありきの「エンターテイメント」なのです。

魂かけて世界と対峙し、それを他者に表現していく。
これが、芸術の役割だとおもうのです!!!


言葉がなんか巧みにつかえないのがもどがしい・・。

ま、多分のはなしですが。

世界との対峙のスパイラル!

  • 2009.07.13 Monday
  • 08:32


ふかさか南のコンセプト、昨日、悩みに悩んで、辿りつきました。(多分!)

「世界との対峙」

これで、まとめていこう。

今までは、わかりやすいものをと。
シンプルなものをと、思っていましたが、もっと真剣に。

ちょっと言葉は難しいけど、「世界との対峙」というタイトル、これもシンプルでよい。

何を私はテーマに今まで考えてきたんだろうと、今まで書いた詩を読み返してました。

最近は、言葉、詩よりも、絵画が先にありき。
昔は、言葉が先にありました。

言葉で色々表現することがなくなってきて、絵を描いてて、その絵がどんどん
変わってきてた。その変わりを、自分で把握したかったし、何らかの答えをまとめたかった。

「対称」ということにずっととりつかれてて、そのことばかり考えてた時。
そして気付けば、私の絵は対称になってる絵が多い。
蝶の絵もそうだし、歓迎の絵もそうだし。真ん中から広がっていくもの。














「対称」をつかった言葉の絵もつくりました。

***************************
          「図鑑」
溜息 溜まる息          独りの特 独特 
 貯め域 貯める域      退いた徳 退く徳
  為活き 活きる為    毒溶けた 毒溶く 
   タメ粋 タメと粋  ドクと督 ドク督 
       生ける濁とてたまに解ければ
           昆虫
          今中増入
           蝶々
          移入図鑑
****************************

これは社会の風刺の詩です。
「タメイキ」と「ドクトク」という言葉を対にして蝶の羽にしました。
そして、私はそれをしかりと見て、図鑑に入れたのです。


こんな詩があります。

***********
「対称」

形有るものは
有るだけで
対称なり

移りゆくものは
ゆくだけで
対称なり

存在し
生命あるものは
それゆえに
対称なり

よって
対称が有る

創造こそ
対称ではなかろうか

唯一への
挑戦は
対称を
求めることである

そこで
ひらめいた

唯一の
対称を
創ろうではないか
***********

もう一つ

************************

「対称」

対称に縛られた人類は声を大にして連なろうではないか
厳かなる形式が我々を苦しめる

上がるならば下がる
下がるならば上がる
行くは来る事なり
右こそ左
縦ならばそれは横であり
前後でさえ さえ

分析は美徳である 分析は美徳である
高められた 賛美された
解明は拠り所である 解明は拠り所である
崇拝された 躍らされた

対称とて如何に積もるかを測らねばならなく
善ならば悪であり
好きといえば嫌いであり
憎しみとて愛に似つくものであり
浮くものは溺れるものとなり

欲しいままに与えよう うよえ与にままいし欲

発想は再三生産された
幻が・・・ 幻が・・・ 幻とて
発想は再三生産された
慈しまれた 滅ぼされた

偉大なるものこそ貧弱かもしれず
耐える事ができようか か か

破壊は発展か創造か 永遠か絶対か

破壊は不朽の無なり

対称こそ
それこそ対称 それこそ対称

***********************

わたしは何を悩んでいたかというと
人はいろんなこと解明したり解釈する。
学問は歴史を分析したり、物の成り立ちを研究する。
でも、それってそこにエネルギーはあるの?
自分が創りだすものはあるの?
それって、なんかの真似じゃないの?

そういうことが謎だったのです。

「行く」
迎えている人から見ると
それは「来る」

「行く」があるから「来る」がある。

「好き」があるから「嫌い」がある。

創造するということは、創造しないということがあるから。
どんどん突き詰めていくと、我々は唯一のことなんてできない
んじゃないのか?
なんか、そう考えていくと、いろんなことがわからなくなった。

対になっていること。
これは、反対ではなく結局同じことではないのか。

他者に自己を映し出すことは日常茶飯事のこと。

そして、こんな詩もあります。

*********************************

「加速」

そろそろ このへんで いきましょか
そろそろ このへんで やりましょか

驚異と焦燥
今更 何を言う

ぐんぐん ぐんぐん 押しましょう
徐々に  徐々に  上げましょう

習慣と新地
狭間 何を見る

吐息から 呼吸から 深呼吸から
囁きから 聴音から 耳鳴りから

幻覚と回転
驚異 何をした?

********************************

例えば、車が10キロで走っていた。
そして50キロを出そうとする。
その10キロ→50キロのこの「→」これは一体なんだと思った。

10キロが、今の境地。
50キロが、新たな境地。

過去と未来。
それをつなげていくエネルギー。

次に着目したことは、「しかし」という接続後。
前提がある。それに付け加える。それとは反対の発想。
「X しかし Y = XY」

これをですね。

「し」「か」「し」
同じ2つの「し」 それを真ん中で「か」を区切る。
XとYは同じ範疇のものじゃないのか?

*********************

「しかし」

はじめての日 しかし おわった日
くじけたから しかし とまどいじらす

瑕疵あれば(Xだけならば不完全であるということ)
止まって 戻って 引っ張って (「しかし」の役割」
つまずく予感は (Xだけでいこうとする流れを「しかし」がとめて
         Yを持ってくる。そのときに、流れはつまずく)
試 架 詩  (X=試 Y=詩  不完全なXは「試」で表現
        「しかし」は架け橋となるので「架」
        そして、詩は感性のものです、答えはない。
        試を広げていく Yなのです)
残された知  (ここで、私が思ったのは、『しかし』にエネルギーが
        あると、これは上の「加速」と同じです。
        なので、結局同じ『し』は残されるのです。
        またもや、我々は対称に縛られているんではないか)
追いつけ 飛ばせ 駆け上がれ (この『しかし』のエネルギーをうたいます。)
たどりついた

がらくた集めて
大行進 しかし 大行進

がらくた集めて
大行進 しかし 大行進 (これは、結局はいろんな要素はがらくただと。
             いろんながらくた集めて私達はああでもない
             こうでもないと、いってるのよ。大行進だよと。
             でも、それってすごく悲惨なことではない
             だから、『がらくた』や「大行進」はかわいい
             おもちゃとかかわいい表現なのです)
疑問が 逆説を  (疑問とは『か』「しかし」のこと。逆説はXとY)
まとめるか か まとめる か か

双子が 孤独を  (双子とは二つの「し」のこと)
いやすのか か いやす のか か

********************************
こういう詩です。

解説抜きでどうぞ

***************************


「しかし」

はじめての日 しかし おわった日
くじけたから しかし とまどいじらす

瑕疵あれば
止まって 戻って 引っ張って
つまずく予感は
詩 架 詩
残された知
追いつけ 飛ばせ 駆け上がれ
たどりついたら 

がらくた集めて
大行進 しかし 大行進

がらくた集めて
大行進 しかし 大行進

疑問が 逆説を
まとめるか か まとめる か か

双子が 孤独を
いやすのか か いやす のか か

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こういうことを悶々としながら悩んでいました。

私は、2つのものについて、それがずっとテーマだったんのかな。

絵を描くということも、なぜ絵なんて描くのかわからなかった。

でも、絵を見せたら喜んでもらえる、それがすごく嬉しくて。


私は、大きな世界と対峙していく。
そこでの感動がある。
それを絵にあらわすということは、その時点で他者を意識している。
世界との対峙は、そもそも平面的なことではない。
だけど、そこの感動を私は画用紙に描く。
ここで私は他者との対峙へと動きだしているのです。
でも、もしかしたら、この流れは、世界と対峙することは、他者と
対峙するためなのかもしれません。

人間というものは、世界と対峙すること、これは脳に埋め込まれた
ことだと思います。
そして、対峙するということは、対等に近づいていくことで、満たされる。
これは「対称美」とも関係があります。
だから、科学的に宇宙を解明したり、いろんな研究が進められていく。
まず相手をしって、理解し、対等にたちたいと思う。

私は、自分なりに、世界と対峙してきた。
そして、そこにあるものは、「美」であった。
それはただの美しさではなく、深く、荘厳で、怖ろしく、
永遠に広がっていくもの。
だから、私も進化し続けなければならない。
そして、私はそれらを他者へ対峙していく。
そこで、私が創造するもの、そこの世界と他者との対峙がある。
この世界の対峙のスパイラルを私はこれから創っていきたいと思うのです。
それは『美のスパイラル』でもあり、「感動のスパイラル」でもあるとおもう。


というわけで、私の中でのテーマはひとまず整理されたのでした!




蝶の羽の輪郭を広げました。(白い部分)
羽が細くて貧弱だったので、気になってたから。
(まだ、形は納得いってなくて、でも、色を塗っていったら変わってくので
悩みがら進んで行くつもり。)

やっぱり豊かなものはいいですね!
豊かでありますように!

木はうんと濃い緑の葉っぱをつけ、太陽の陽をいっぱいあびて、雨もうんと降り
沢山沢山美しい花を咲かせ、熟した実を次々に実らせて、私たちを豊かにしてくれますように!

そしてわたしたち人間が皆豊かな生活をし、豊かな成長をとげていけますように!
全ては、対峙の中にある。



美しき「対称」!

  • 2009.07.12 Sunday
  • 10:00
私はいま、新たなる課題に直面しています。

私の芸術性というものに文脈を創っていくという課題です。

今まで歩んできた道のりがある。

歩んできたときは、命がけの戦いだった。

しかし、ある境地に辿りついた私は、その境地を表現することに
自分がアーティストである所以があると思っていました。

それは、感動であり美であり、生の歓喜であります。
それを他に表現することに意味があると思っていました。

しかし、今一度、「道のり」を振り返り、そのストーリーを
思い起こしてみようと思います。

何を感じ、何を創り、何を見てきたのか。
自分なりに、冷静に分析したいと思います。

動物の絵を描きます。色彩豊かな絵を描きます。
それは美しく、愛らしく、時には感動的です。

しかし、その奥には、かわいい美しいという一言では言い得ない
静寂で厳かな世界があるのです。

私は、どのようにしてその道に突き進んでいったのだろうか。

物事を表面からではなく裏側からふれてみる。
匂いをかいでみる、よりかかってみる。取り出して分析してみる。
そして、共になる。

そこでやっと見えてくる、静まり返ったそれでいて、世界が
広がり行く絶大な瞬間がある。


最近、私は思うのです。

アーティストとは何て素晴らしい職業なのだろう!と。
世界を支配することができる。
世界を創りあげていくことができるのです。

そして、何よりも、それを人と分かち合うことができる。
その瞬間、他者の魂と触れ合うことができる。
その時の、至福感といったら。

不満だらけ、矛盾だらけで、先も見えず、ただ理由もわからず
彷徨ってきたけど、

こんなにあったかい未来が待ってたなんて。

両手を広げて待ってくれてる世界があった。
そこには、光だけではない。
あったかい、生身の人の愛がある。
信頼がある。

人が才能をのばすこと、自分の表現を確立していくこと。
自分の世界を創りだすこと。

それは、他者がいるから、対象物、対称。だからこその物事。
それは、確かな真理だと思います。


「対称」 この対称に私はとりつかれていた時期があります。
まさしく、今も私は「対称」にとつかれており、その中で生きている。

あなたがいるから私がいる。

人間の体は対称である部分あがります。

右手と左手。これは違うものです。
正反対のものでもある。

しかし、右があるから左がある。

右手を上にあげる。上にあげない左手。
右手を上にあげる。同じく上にあげる左手。


私が一歩前に歩む。

一歩前に歩かなかった過去の私がいるから、今の私がある。

行くということ。
来るということ。

物を創るということ。
物が無かったこと。

前を進んでいくということ。

歴史は創られ進んでいくのです。

私はこの地球に生まれ、生きているのです。
そして、自分ではない誰かと出会い、大きな世界と向き合うのです。

そんなからくりの中で私は最高の幸せを手に入れたようが気がします。

愛しい「対称」に支配されながら、
私は唯一の「対称」をこれから沢山沢山創造していきたいと、
そう思うのです。

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■名前 ふかさかみなみ
■職業 アーティスト(画家)
■家族 夫と娘
■住んでるところ 大阪
■趣味 料理・テーブルコーディネート・フラワーアレンジメント

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